2ntブログ
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わんこを応援してくださっていますファンの皆様いつもありがとうございます。とても嬉しく思っております。

今日は質問の中で最も多く聞かれることについて僕の考えをお話しします。僕とわんこの関係性です。多くは同じく主従関係をお持ちの方からの質問が多い気がするこの質問。

一言で言うならば宗教です。わんこにとって僕が絶対的な存在でありカリスマである点で同じだと言えると思います。そして価値観の矯正をしていく点でも同じだと言えます。強要するのではなく順応させること、共通する点はたくさんあります。本能的に感じてのことでしょうが先日わんこは僕に教祖様に向いてると言いました。そこまで分かっていて隣でシッポを振っているわんこに僕は心の中で微笑ましく笑いを堪えるのでした。

話は変わりますが、僕はわんこを束縛したことは一度もありません。したければ浮気は自由です。彼氏を作ることも自由です。そして僕も一度としてわんこに束縛されたことはありません。他の女とすることを咎められたことも一度もありません。主従関係において束縛は、ご主人様が奴隷に対し力をもってして肉体的あるいは精神的に拘束することと考えられがちです。しかし本当の束縛は他人によりされるものではないというのが僕の考え方です。ご主人様への尊敬や愛で自らにより拘束される束縛こそが本当の束縛なのだと。これが僕の持論です。つまり束縛は奴隷自身の中でのみ成立するのです。

では僕はわんこを奴隷として繋ぎ止めておくために何をしているのでしょうか。

僕がしていることは前だけ見て自分自身を曲げることなくただ走り続けることです。そしてわんことっていつまでも憧れで追いかけたい人間でいる努力をし続けることです。わんこの歩調に合わせずにただひたすらに我が道を走り続けるのです。必ずわんこが追いかけて来ているはずだから。そう信じて。

この話をすると不思議がられます。
主従関係の概念からはかけ離れているからでしょう。僕とわんこのセッ○スを見たことのある人ならばなおさら不思議に思うはずです。
玩具のように粗末に扱われて傷つけられながら感じるわんこと僕のセッ○スは表向きは完璧なSMになっているからです。
真のドMは愛が無いからこそ純粋に痛みや苦しさのみで絶頂を味わえるものなのだろうと思いますが、僕が求めるのはそれではありません。ただのメスとして人格も無視されて犯される快楽を求める女には価値を見出せません。
わんこのように自らに束縛された女性が儚さと艶をまとうのだと僕は感じるのです。

わんこから送られてくるラインの最後によく付いている可愛らしいフレーズがあります。
「ご主人様にずっと使いたいと思って頂けるように」です。
わんこはその身体を玩具として使ってもらうためにたくさんの努力をします。それは大好きな人に好きだと思われたい乙女心とたいしてかけ離れてはいないように感じます。

簡単なようで難しいでしょうか。
これが僕とわんこの関係の答えです。
お互いが相手を束縛しあい可能性を狭める内向的な関係ではなく、お互いそれぞれ相手にとって相応しい人間であるために自分の価値を上げる努力する関係です。そして尊敬と愛に自ら束縛を受けるそんな関係です。
そんな大きな愛ゆえに行き場を失って暴走した想いが性欲とあいまってSMとなるのでしょうか。奴隷に全てを受け入れる覚悟が生まれるのでしょうか。奴隷の愛の限界を試すべく痛めつけるのでしょうか。僕は僕自身の感情の源が何であるのか分からぬままわんこの身体を玩具にしているのです。

主従関係とはとかく自己中心的な男と都合の良い女の組み合わせになり、都合の良い女を留める為の餌にされることが多いものです。
皆様の主従関係がお互いの求める本当の愛の行き着く先の形でありますよう願っています。

natuki



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